いのちの時間

母の存在を深く知ったのはずなのに

ててママ中学生😊

亡き母は、今思えば健康ではなかった。

いつも笑顔の母は昭和の頑張り屋さん。

「肩が凝る」とよく言っていたが、

年をとるとそうなるのかなあと。

そのくらいにしか考えていなかった。

母に褒められるのが嬉しくて

肩揉みを上手になろうと頑張った。

幼少期は素直になれなくて、

弟のこと大好きだけど

弟と比べてエコヒイキされていると思い込んでいた🤣

肩揉みの時間は母に触れられて、

独り占めできる気分だったのかもしれない。

肩揉みは本当は好きではなかったかもしれないが、

「肩揉みが好きです😅」と言っていた🥹

中学生のある日突然、母がくも膜下出血で倒れた。

ててママが寝ている時不思議な夢を見た。

夢の人
夢の人

お母さんを連れて行こうね

 

花畑でおじいちゃんが、そう一言告げた。

はっと目が覚めると、父がそばにいて

「お母さん倒れたから病院に行くぞ」

と言い、さーっと緊張のような変な気持ちになった。

既に救急車が来ていた。

父と弟とすぐに救急車を追いかけたと思う。

薄暗い病室で、白衣の医師に

「かなり厳しい状況です、明日手術をしますが
助かったとしても、普通の生活はできないでしょう」

と言われた。

「どうしてすぐ手術してくれないの?」

「どうして、どうして」って責めたてていた。

今思うと、くも膜下出血の急性期は

絶対安静で光の刺激も避けたいので

薄暗い部屋だったのかあとも腑に落ちた。

ショックのせいで、薄暗い部屋だったと

思い込んでいたのかとずっと思っていた。

手術のために丸坊主にされた母は

仏様のように見えた。

薄暗い部屋の中でも白く美しかった🥹

手術の後はHCUに入った。

あの頃は家族の付き添いが必要だった。

弟がいたので、中学生のててママが泊まり込みで付き添った。

母が手術後のせん妄か、意識が悪いからか

大暴れするので、ててママは馬乗りになり

看護師さんと一緒に母を押さえ込んだ。

今では、考えられない光景だ。

会話ができるようになったが、

ててママ中学生
ててママ中学生

お母さん何歳?

ててママ母
ててママ母

4歳

死ぬもしれないと言われていたから

へんてこなことを言う母でも嬉しかった。

結構面白がっていた。

生きていてくれてることが嬉しかった。

母の隣のベットには

脳腫瘍の手術をした小学生の女の子がいた。

色々思い出すものだな。

名前まで思い出せた😊どうしているのかなあ。

あの頃に看護師になりたいと

思うようになっていたと今気がついた🤣

母がいない間は、早起きして洗濯もした。

ご飯も作ったり、弟のお弁当も作ったり

それでも意外と楽しくやっていた。

長い入院生活から自宅に帰れる時には

明らかな麻痺もなく、話もできる母になっていた。

最初は嬉しくて一生懸命手伝いもしていた。

しかしだんだん、やらなくなっていったのだった。

『母の存在を深く知った私』というタイトルで

弁論大会で賞を頂いた。

内容は思い出せない😭

でも垂れ幕に大きくタイトルが描かれ

体育館のステージで泣きながら作文を読んだ。

会場から、啜り泣きの声が聞こえたことも記憶している。

それなのに、ててママはだんだんと

家の手伝いなどやらなくなっていったのだった。

その時には10年後に母が亡くなるなんて想像もしていなかった。

逆に、なんとなく親は死なないんじゃないか。

ずっと生きているのだと思っていた。

母の気持ちも考えようとせず

だんだんと反抗期に突入していったのだ。

勉強もせず、看護師になりたいけど

本気になれないててママがいた。

父の反対は、看護師になれない都合のいい

言い訳だったのだと、今は思う。

唯一、母にしてあげられたことは、

てての存在だった。

母が亡くなって、ずっと自分を責めていた。

親孝行していたら

母はもっと長生きしたのに

もっともっと母のやりたいこと

やらせてあげればよかった。

ててママのせいで、早く死んだのだとずっと思っていた。

母とててのおかげで、

残される者が後悔しない人生にしようと思うことができた。

とにかく一生懸命生きること。

やりたいことを見つけて全力投球してきた。

今は、使命と思えることも見つけることができた。

人は必ず死がやってくる。

いのちの時間を大切に生きていこう😊